歳を取ると赤ちゃんに戻るというけれど

以前、おばあちゃんと雑談していた際に

「歳を取ると赤ちゃんに戻ると言うけど、あれは本当だね。最近はずっと寝ている」と言っていた。

 

横になり、日がな一日ウトウトと過ごすおばあちゃんの姿を想像すると私は和んだが、本人はふがいない気持ちなのだろう。

 

私はというと、最近ではよくパンツを裏返しに履いているようで、トイレで気づくたびに頭を抱えている。

 

年齢に換算すれば、5歳児くらいの凡ミスだろう。自尊心にグッと響く重めのパンチだ。

 

しかし、文化人としての自負もある。これは、一種の生きる工夫であると。

 

女子大生の時分に、女友達との3泊4日の韓国旅行にハンドバックひとつで参加した。身一つ、パンツ一つ。裏返せば、使えるさ。

 

そう、パンツは裏返しで使えるのさ。

 

他人の生活を覗きたい願望の強い私がグッと来ているタバコ屋

ついつい店内を覗いてしまうタバコ屋がある。会社の帰り道にあるその店は、出来て1年も立たない、一軒家をリノベーションして作られたタバコ屋だ。

 

タバコへの当たりが厳しいこのご時世に、よくも新規オープンしたものだ。

 

外壁に塗られた深緑のペンキとカタチの良い窓ガラスは落ち着きがあり上品で、パッと見ではタバコ屋に見えない。書きながら気付いたが、そういえば、タバコが置かれているのを見たことがない。

 

奇妙なタバコ屋であることを本能的に嗅ぎ取ってきたのか、職場の帰り道で店先を通りすぎる度に、横目でチラッと一瞬、覗いてきた。

 

私は電車の車窓に流れる民家などを見て、干された洗濯物から家族構成や人柄といった細部を想像するほど、他人の家や生活に関心がある。

 

私という思想体を残したまま他人に気付かれずに脳みそに寄生し、あらゆる人の人生や感情を覗いて生きたいという願望がある。

 

念を押しておきたいのは、もし本人に気付かれたらと思うと怖いため、決してジロジロと見ることはできないパーソナリティを持っている点。

 

だからこそ、たとえば車窓から見える洗濯物であったり、足を止めることはない歩みの中のチラ見だったり、一瞬で得た情報から家主の人生や生活を雄大に想像することが使命となる。

 

かのタバコ屋もそのようにして私に覗かれ、様々な想像妄想に晒されてきたのだが、つい最近はじめて家主を見かけた。

 

奥田民生をさらにボロにしたような煤けたアラフォー男性という風貌だった。一瞬のチラ見にも関わらず目が合ってしまい、つらかった。

 

その後もとくに変わりなくチラ見してきたのだが、なぜか最近、タバコ屋が目まぐるしく変化しているのだ!

 

一昨日は、動物の餌入れが置かれていた。しかも、それなりに使われてきたような入れ物で、餌はほどほどに減っており、それなりに家に慣れている様子が感じられた。器のサイズから猫か小型犬だと思われるのだが、あのタバコ屋で動物の影を見たことがない。

 

昨日は、古いパチンコ屋のカウンター横にでも置かれていそうな、ガラスの冷蔵庫が置かれていた。中身は空だが、これから飲み物をそれなりに置いきたいという心意気を感じ、なんとなく不審に思った。

 

いよいよ、今日。なんと、タバコ屋の入り口に「無料立ち寄り所」的な言葉が追加されていた! ここ最近の精力的な変化はこのためだったのかと納得しているのだが、店主さえほとんど見かけないタバコ屋を覗く楽しみがなくなる失望感があった。

 

タバコが見あたらないタバコ屋の入り口からは、7畳ほどの広さに小さなテーブルと椅子1脚、キッチン、ロードバイクが見える。誰にも咎められずに、一瞬だけ他人の生活を覗ける、万華鏡を覗き込むような煌びやかさがあった。

 

しかし、こうやってここに書き記しているうちに、今度はそこに集う人物を時々目撃できる可能性もあることがわかった。

 

あのような謎の多い店に集う人物というのは、さぞ変わり者に違いない。

 

覗くたびに新しい発見のあるタバコ屋に日々店内を覗かされているが、今後も覗かされる日々が続きそうだ。

 

恩返し強迫性・薄情恐怖症

薄情者と思われるのが嫌いだ。

薄情者と思われることを異常に恐れている。

 

恩知らずや恩を仇で返すといった言葉が恐い。人として最もやってはいけない行為と思う。

 

もらった恩を返さないなら、そのまま存在してはいけないと思う。もらったら、とにかく返さなければいけない。それは、人が存在できる最低条件……

 

 

天然ボケだった上司が、本日付で退職した。より条件の良い会社へ転職する。本人にも良いことだ、喜ぶべきことだ。

 

それが、どうか。退職を聞いた時からずっと、気が重い。部下として力不足だったシーン、受けた恩についてばかりが頭に浮かぶ。

 

何一つ恩が返せておらず、特にお礼もできないまま、見送った人間。恩知らず、とんだ薄情者と陰口が聞こえてくるようだ。

 

何度お礼を言っても、何を渡しても、自分が受け取った以上のものを相手に返せた実感がない。

 

その力不足が、非力さや薄情さが、つらい。自分が空っぽになって返すことに嫌気がさすほど差し出さなければ、恩知らずの薄情者という意識が消えない。

 

こんな行き過ぎた気遣いが精神に影を落としているのは間違いない。定時になると上司にさっさと別れを告げて、逃げるようにジムへ。身体を鍛えれば、少し強くなるかもしれないと期待してるのだが、こうやって字面にするとまた自分への問題意識が出てきて、つらみがすごい。

人間みんな芸能人

今の私なら、そう口走った彼の気持ちが少しわかる。

 

私はその彼とは会ったこともない。友人に又聞きした話で、聞いたのももう10年以上前だ。

 

私の友人は、高校時代の一瞬の同級生で、クラスの人間とウマが合わないと入学して数ヶ月で中退し、19歳という若さで子供を産んだ美人ヤンママだった。大学の講義の合間に原付で彼女に会いに行くと、育児の合間にその彼の話を教えてくれた。

 

昔つるんでた男友達と久々に会ったら、東京に行くつもりだと打ち明けられたらしい。芸能界を目指したいと。

 

若い年齢で人の親となった彼女は、もう20歳も過ぎたのだし、少し無謀なのではと諭そうとした。彼は「人間みんな芸能人」という言葉を残して去った。

 

当時、私たちはその話をズレた男の子の笑い話として交わした。彼女と、またね、と言い合って別れた。

 

次に彼女と会ったのは数年後、共通の友人の結婚式だった。二次会で、旦那の稼ぎが少ないので、夜にキャバクラのバイトを始めたことを聞いた。若くて溌剌とし、造形のはっきりとした整った顔と気の強さ、それとは裏腹に女性特有の気まぐれと弱さを持った彼女の人気など聞くまでもない。別の女友達は、キャバクラなんて始めたら絶対にやばい、としきりに心配していた。

 

二次会の終盤、キャバクラに来る客のパティシエが作ったサプライズケーキを高々と掲げる彼女を、私たちはテーブルの端っこから見つめた。それが、最後に彼女を見た記憶だ。

 

風の噂で、彼女はキャバクラの客に本気になり、旦那と離婚して親権も手放したことを聞いた。

 

私たちが20代半ばの頃、有名なアパレルショップの店員をしている噂を耳にした。

 

LINEの友人リストでたまたま見かけた彼女は、ますます美しく、子供を2人産んだ女性とはとても思えなかった。

 

ニートの自分にうんざりして東京へ出て以来、彼女の噂も写真も見聞きしていない。

 

大学、就活、就職、ニート、就職、ニート。環境の変化でなんとなく違えた彼女との道が、時間の経過によってどんどん広がっていたらしい。でも、スポットライトを浴びたいと彷徨ってる点は変わらない。今も昔も、人間みんな芸能人。

 

 

違うのかもしれないけど、わかる気がしている感覚

赤ちゃんは、眠っていたかと思うと、急に泣き出すことがある。

その中でも、とくに「赤ちゃんが眠りに落ちる瞬間に泣き出す現象」と、

「痴呆症の人が、自宅にいるにも関わらず『家に帰りたい』と口にする現象」。 

両者のこの現象に、私は共感する。

 

両者とも、他人に自分の感覚を説明するための言葉を持たない。説得的な言葉の代わりに、端的な感情表現や帰宅願望を口にし、伝えようとするのだろう(後者は夕暮れ症候群・夕方症候群と呼ばれる)。

 

本人らからすれば、本当のところは違うのかもしれないけど、私はこれらを訴える気持ちがわかる、と常々思っている。

 

入眠時に赤ちゃんが泣くのは、彼らが悪夢を見たため、という説がある。

人間が夢を見るのはレム睡眠時と言われ、大人では睡眠全体の20〜25%程度しかレム睡眠がないが、赤ちゃんは50%もの大幅な割合をレム睡眠が占めるらしい。そのため、レム睡眠時の夢が悪夢の場合、不快感に耐えきれずに泣き出してしまうのだろう。

 

私も10日に1日程度、入眠時に強烈な絶望感や不快感が体全体に満ちるのを感じることがある。

悪口やたくさんの不快な言葉が背後からにじり寄り、ベッドに横たわった私の体が背中からそのまま地獄に引き摺り込まれる感覚だ。

この世に摑みかかるように一度目を覚ますか、入眠時特有のいつもの不快感だと高を括ると、その後はすとんと眠りに落ちる。

 

赤ちゃんは、このような悪夢の頻度が多いのだと思う。私のように、こんな悪夢はいつものやつだ、と割り切れる思考を持たないため、必死に泣いてこの世にすがっているのだろう。気の毒だ。

 

それから、痴呆症の人が、自宅にいるのに「自分の家に帰りたい」と口にする感覚。これにも共感せざるを得ない。私も昔から、自宅にいても仮住まいにいるような感覚が常にある。物心着いてから今までに、5回ほど引越しを経験している影響が大きいはずだ。

 

どうせまた移動するのだから、現在の仮住まい先を我が家などと考えて根を張ってもしょうがない、という思いがある。むしろ、居心地の良さを感じるとその後の移動がつらくなるので、愛着を持たないようにしているとさえ言える。

 

その結果、私などは自宅にいても我が家にいる感覚が希薄だ。その点、痴呆症の人が、「自宅にいるはずなのにこんなに落ち着かないのは、ここが我が家ではないからだろう。早く家に帰りたい。」という思考は真っ当な感覚に思える。親しみの抱けない自宅にいるのがつらいのだろう。

 

今回「赤ちゃんが眠りに落ちる瞬間に泣き出す現象」と、「痴呆症の人が、自宅にいるにも関わらず『家に帰りたい』と口にする現象」、この2つの現象に私が共感していることを丁寧に書いてみたかったのだが、書いてみた結果、そこから言いたいことがとくになかったことも明確になった。

しいて言えば、私は赤ちゃんと痴呆症の人のハイブリッド的な人間だ、ということになるだろう。

意識が高くない独身アラサーの夢が百貫デブになった件

たくさん食べなければ、痩せてしまう

 

私にも、そんなすさまじい新陳代謝を誇った青春時代があった。

 

それが今はどうか?食べたら食べた分だけ、太る一方だ。

 

特に、太ももの裏からお尻、腰周りは、食べた分だけ厚くなる。

 

スタイルだけが売りだった女としては、落ちぶれた昨今のスタイルに心底がっかりしている。

 

なるべく大股で歩いたり、階段を使ってみたり、奇妙なダンスを踊ったりと何かと生活に運動を加えているものの、なかなか痩せない。

 

めちゃくちゃ食べているのだから、当然の結果だ。

 

つい先日外出した際には、昼間からソーセージや分厚いベーコンをつまみにワインをしこたま飲み、夕食にうな重とビール、夜食に焼肉とコーラを食べた。

 

文字にすると、改めてゾッとする。最近では、食べることに罪悪感を抱くようにまでなってきた。

しかし、何かと理由をつけて、この食事はカロリーゼロだと宣言して食べるようにしている。

 

とにかく、食べることが、どうしようもなく気持ち良い。食材を口いっぱいに満たし、空気を含みながら咀嚼し、立ちのぼる旨みと香りを胃に流しこむ。

 

何かを食する喜びが身体に満ちて、恍惚とする。

 

許されるなら、ずっと食べていたい。

 

そう、私は自然と、何も罪悪感を抱かず、欲望のままに食事をし続ける人間になりたいと夢見るようになった。

 

どうせ痩せないならいっそ、太り続けても、何の罪悪感も持たない人間になりたい。

 

あぁ、神よ。

近所の串揚げ屋の話

10月中旬のとある金曜日、住宅地に混じってポツポツと赤提灯が灯る寂れた商店街を帰っていると、串揚げ屋ができていた。

 

怪しい建物の2階にあるらしい、「なかよし食堂」といった類の不穏な店名。

 

原稿作成ソフト・一太郎を使ったかのように手作り感溢れるチラシには、楽しそうに踊る動物のイラストに混ざって「串揚げ屋オール100円」の文字。

 

うっかり釣られて階段を登ると、禿げ隠しのために被っていそうな帽子のマスターと、人懐っこく笑う陽気な年配男性がカウンター越しに会話をしていた。というよりも、年配男性だけがやたらと楽しそうにマスターに話しかけていた。

 

奥のテーブルに腰をかけてメニューからビールを選ぶと、暇だからという理由で、特別にビールを提供してくれた。

 

マスターが1人でお店を回すので、飲み物は基本的にキャッシュオンかつセルフサービスらしい。

 

ビールで一息つくと、居抜きの新店が“いかに前の店舗のままで開店されたのか”がよくわかった。縦長な間取りの店内中央には数人ほど座れるカウンターテーブルがあり、逆側の壁を這うようにソファが備え付けられている。元のお店はスナックだったようだ。そのため、串揚げ屋にしては、テーブルが低すぎ、ソファは沈み過ぎ、おまけに床は一面紅色のカーペットだった。

 

内装にまったく感心がないに違いない。それはそれで面白いなあとは思うものの、どこか居心地の悪さも感じていると、原因は音響設備が皆無だったことに気付いた。

 

陽気な年配男性が楽しそうに話さない限り、ほぼ無音。

 

完成に向かう串揚げがクツクツと静かに鳴っている。

 

しかし、それが不思議と嫌でもない。そして、陽気な年配男性に話しかけられるマスターの返事が、とにかく短い。はい、とか、そうですか、程度で、愛想笑いすらしない。話す気がないか、興味がないかのどちらかと心配に思えるほど返事は短いが、不思議と突き放す意図も感じない。ただただ、気の利いたコミュニケーションを行う術を身につけていないようだった。仕事がないからこの店を始めたとマスターがこぼした言葉がやけにリアルだった。

 

よく見ると、カウンター横には、異様にデカイ、新品のテレビが置かれていた。これがいつか使われるようになるなら、無音な店内は回避できるだろうが、今度は異様にデカイテレビが浮くのではないだろうか。

 

店内が無音であることも、マスターの気の無い返事も、全く意に介さない陽気な年配男性は、近所の居酒屋からの回し者であったことを陽気に宣言しながら会計を済ませていた。

 

マスターは、年配男性の正体を聞かされても、特に気に留めていないようだった。何一つテンションが変わらない接客だった。

 

贈り物のテレビには、マスターが仲間内で呼ばれているらしい、南国をイメージさせるような単語が宛名に使用されていた。このマスターは仲間内では陽気なキャラクターなのかもしれない、とそのときに読み取れたのは、その程度だった。

 

まさかその後に、マスターが既婚者であることが判明したり、店名を使ったTwitterアカウントで政治への憤怒や推し政治家の呟きをリツイートしてばかりで店の営業情報を全く呟いていなかったり、推し政治家の選挙時期にはお店を閉店していたりと、仕事がないから串揚げ屋をオープンしたと言ったわりにはまったく仕事をしていないのだった。