25歳・引きこもりニートが故郷を捨て、東京に来た話

春が近づくと、なぜか不安定な気持ちになって、古傷が痛みませんか?

私の古傷の1つに、東京に来るきっかけとなったエピソードがあります。

  

地方で貧しく育った私はそのまま地元の私立大学へ入学。親のお金で遊びくれる大学生よりもはるかに社会的に使いようがない「躁鬱ど腐れ大学生」として5年間を過ごしました。車が買えず、雨の日も風の日も原付通学をした5年間。奨学金だけでは学費や学生生活が賄えず、アルバイトに明け暮れたことで学業には専念できず、特待生を逃して学費が上がり、さらにアルバイトをしなければならなくなった5年間。リーマンショックの煽りをもろに受けながら全滅した就職活動。暗黒の学生時代。

大学卒業から数週間後、非常に幸運なことに、就活生の頃に第一希望だった企業のグループ会社に営業職として入社することができました。私は学生時代の腐った自分と決別したいが為に、文字通り命を削りながら厳しい営業職の世界に身を置きました。が、1年も持たずにまた廃人へ。

 

辞める寸前にいたっては、営業先から帰社する電車の中で、わけもなく号泣するような不安定さで、帰路の電車内で見知らぬ男性ふたりが唐突に喧嘩を始めたのを見てパニックになりかけるほどの、どん底情緒。

その後も私は、心身の基礎体力が回復する前に、ダメな自分と決別したいという焦りから就職してはすぐHPがゼロになってニートに返り咲くという、ジェットコースター並みに高低差のある生活を繰り返していました。落差の激しい生活が繰り返されることでさらに精神は疲れ果て、自我を保てない状態に。

 

そうした状況の中、新卒で入った会社のブランド力でなんとか拾ってもらえた広告代理店に派遣社員として務め、社員が慢性的に残業している風土の中、濁った瞳で仕事をスルー。定時で仕事を切り上げ帰宅しては、映画を1日2本鑑賞し、その映画の感想を手帳にしこしこ書き溜めることでなんとか日常生活が営める状態でした。

楽しい時間を過ごすために自発的にできる行為が映画鑑賞以外に何もなかったため、週2回はレンタルショップへ通い、1本100円のDVDを10本借りていました。とにかく、楽しいことや夢中になれる瞬間が現実世界にはなにひとつない日々。

 

人生はきっとこのような退屈なものなのだと思い込もうとする一方で、それが生きることなのだとすれば長生きはしたくない、せめて奨学金の返済が終わったらもう生きていなくても良いなあ。などと将来への希望なんぞ微塵もない心持ちで日々を過ごしていまいした。何も楽しくない日常から唯一離れられる時間は、映画の世界にどっぷりと浸かっているときと、お酒にどっぷり飲まれているときくらい。

 

決して明るくはない日々を過ごしていた私は、せめて楽しそうな話題にはなるべく飛びつかなければいけない、という強迫観念に近い思想も抱いており、人からの誘いにだけは極力乗るようにしていました。そこで参加した合コンで、事件は起きました。

 

這いつくばりながらなんとか生きている日々に自信を喪失しきっていた私は、男性との恋愛など想像もできなく、コミュニケーション能力や判断能力も歪みきっていました。口を開けば薄気味の悪いオカルトのような話題か、もしくは薄気味悪い空気を作るような返答をしてしまう。私が話すことで、空気が歪む。

 

しかしながら、腐っても人の子。自分が話すと変な空気にしてしまう、ということは自覚していました。気付くけれど、直せない。(当時の被害妄想も多分に影響していたかもしれません)そうして私は、会話の輪の中で自分の破滅的なコミュニケーション能力を目の当たりにしては打ちのめされ、みんながいる中でも現実逃避をしたくなり、自分の殻へ閉じこもろう、誰もいない場所へ逃げようと、深い酔いの淵へ逃げるがためにお酒を飲み、積極的に飲まれるのでした。

 

腐った精神状態でべろべろに酔っている私は人間というよりもゾンビに近いのですが、あの当時でも人の表情を読み取ることだけは一応できていたように思います。

人間の瞳には好感の意が良く表れます。恋愛番組で好意の矢印がテロップされるかのように、私は男の子がどの女の子に好感を持っているのかが良くわかりました。そして、それが自分には向かないことも。

 

誰にも相手にされないという事実が飲むしかないという気持ちを加速させます。気付けば泥酔。しかし、捨て身になった自分は気が大きくなっており、常識などにも囚われない、なんとも突拍子もないことをする、いわば狂人へと転身します。私は1次会の途中から記憶が飛んでいますが、私たちは合コン会場を出た後にカラオケに行き、私たちはさまざまな曲を歌い、私だけ踊り狂っていたようです。

そして、私は新世紀エヴァンゲリオンの「残酷な天使のテーゼ」を楽しそうに歌っていたらしいです。記憶がないほどべろべろに酔っていながらリズムと音程は外さず、しかし歌詞だけは原曲とひとつも合っていない、オリジナルの歌詞で完璧に歌い上げていたのだとか。

 

そのあたりから私の狂人具合はさらに加速し、「君はペロが上手そうだね」「ペロ注文してよ!」と、ほとんどの単語を「ペロ」という言葉に置き換えて会話していたらしいのです。

 

当時、私は姉の飼い犬であるチワワを預かってしばらく同居しており、そのチワワが何かあるたびに親しみを込めてペロペロと手のひらや顔をなめてくることにいつも癒されていました。

チワワ特有の小さくて薄いぺらぺらとしたやわらかい舌が、同居人への親しみを表そうと忙しなく動く様になんとも愛くるしさと親しみを感じていたことが、合コンの会話での「ペロ多用」に影響したのだと思います。

 

私があまりにも「ペロ」という単語を幅広い単語に置き換えて会話するために、「ペロ」の汎用性の高さを心得た合コン参加者たちまで「ペロ」を会話に織り交ぜるようになったらしいのです。

腐敗した私と嫌な顔をせずに遊んでくれていた親友の女の子が、全然興味もない男の子から「今日この後ペロしようよ…」とホテルに誘われるという悲惨な事件も起きました。

記憶を無くしていた私に次の日、そっと教えてくれました。私は「ペロ」という単語によって生まれてしまった不愉快な出来事に非常に責任を感じるとともに、自分に対する強い羞恥と嫌悪を抱きました。

 

そして、私はこのような人間だから彼氏も結婚も難しいだろうと確信めいた直感が走りました。少なくとも、地方に住み続けている男性に、私のような狂人を好きだと口にしてしまうような血迷った男性はいないと確信を持ちました。地方に住んでいた20年間のそれまでもいなかったという現実が、さらにこれからもできないだろうという直観を後押ししました。そうして、私は強い危機感から、故郷を捨てました。

 

東京に出てきたあの日から、今日でちょうど3年。

東京にも私のような人間と付き合ってくれる男性はいないと学びました。

ニートからはなんとか脱出し、仕事に就けています。仕事だけが私の人格をそっと癒し、励ましてくれているような気がします。仕事サイコー!イエーイ