秘密のポケット

一度も意識してこなかった事柄や存在が初めて意識された瞬間の驚きを、誰でも経験しているものだろうか。

 

漠然と知っているつもりだったことを、実はまったく知らなかったことに気づいた瞬間。

 

女の人生が80年だとして、年が明ければ割とすぐに30歳になるわたしは、人生全体の3分の1を超えた地点にいる。そんな地点で、こんな思いをするとは。

 

しかし、以前にも一度、似たような感覚を味わった。帰巣本能という言葉をずっと帰省本能だと思い込み、何度も口にしていたことが行きつけの美容師からの指摘で発覚した。

国語の教科書に帰省本能と書いてあったと弁明したが、何の効果もなかった。29年の間、いろいろな人の前で使ってきたにも関わらず、誰にも指摘されなかったことが無念でたまらなかった。

 

 

そしてわたしはつい最近、歯周ポケットという存在を初めて意識した。歯ブラシや歯磨き粉のコマーシャルで、もう何千何百と聞かされてきた、この言葉。まさか、わたしの口の中にも存在しているとは考えたこともなかったのだ。

姉の家にあった糸ようじをなんとなく手に取り、自分の歯に試した瞬間、わたしの中に潜んでいた歯周ポケットへの探究心が産声を上げた。

 

インターネットで入念にリサーチし、次の日には自宅用の糸ようじを購入した。そしてその夜、さっそく糸ようじを試したところ、とてもこわくなった。思った以上に糸が食い込むのだ。自宅で初めて糸ようじを使った興奮とは裏腹に、こんなに歯茎の中に糸が入っても大丈夫なものか、おそろしくてたまらない。29年間ではじめて見た食い込み方だった。しかし、それは結果として、わたしの歯周ポケットへの探究心を加速させることになった。歯周...ポケット。言い得て妙だと思った。

 

次の日仕事をしていると、昨夜のことが猛烈に思い出された。気づくとインターネットで「歯周ポケット」と画像検索していた。わたしが思っている歯周ポケットと、世間で言われている歯周ポケットが同じか、不安があった。同じだった。しかし、情報過多だった。歯周ポケットがすっかり浅くなり歯が根元からほとんど剥き出しだったり、意図的に歯周ポケットをめくって歯の根元が剥き出されていたり、さまざまな画像があった。

 

不安は一斉に増殖した。

 

わたしの歯周ポケットは深すぎるのではないか。歯周ポケットに悪い菌が溜まっているのでは、歯周病の疑いがあるのではないか。

わたしは不安になって我慢できず、隣のデスクの先輩女性に相談した。「つい最近はじめて糸ようじを使ったこと」「29年間で初めて歯周ポケットを意識したこと」「糸ようじが食い込む感じがこわかったこと」などを伝えた。

 

先輩女性はわたしを気遣い、自分も毎晩糸ようじを使っていること、子どもの頃に歯列矯正をした際は歯間ブラシを使っていたことなどを教えてくれた。

 

先輩の話を聞き、思いがけず驚いてしまった。自宅用の糸ようじを買う際、隣の棚に並んだ歯間ブラシが目に留まり、あんな物が歯の隙間に入るなんて歯が随分と抜け落ちたお年寄りばかりに違いないと勝手に思い込んでいたのだ。幼い子供が歯の隙間に歯間ブラシを当てることもあるらしい。

 

口の中の世界はなんと広いことか。

 

不安や疑問が解決しないわたしの様子を見た先輩女性は、医師への相談を勧め、自分の仕事へと戻っていった。

 

「またか。」正直に言うと、わたしはそのように感じていた。先輩女性たちと女の健康について話すとき、大抵は「医師に相談」が結論になった。「わたしの歯周ポケットは糸ようじを入れても大丈夫な歯周ポケットですか?」医師にそんな相談をするべきか、わたしは結論を出せなかった。

 

 

先輩2人と客先に行き、ポケモンGOをしながら帰ってきた。途中でつけ麺屋に寄り、おそらく通常よりもやや茹で過ぎた状態で提供された麺を3人で啜った。

「この麺は本来のレシピより茹で過ぎているに違いない。」そんな会話を数回繰り返しながら、完食した。食後のなんとも退屈な時間が漂う中、先輩の1人がおもむろに楊枝を手にした。もう1人の先輩も、楊枝を手にした。おっさんかよ...と思いかけたが、2人とも30代半ばを過ぎた男性なのであながち間違ってもいないのだった。

楊枝のその先がわたしの歯の隙間に当てられた瞬間に、わたしの手に楊枝があったことに気づいた。先輩の1人が楊枝を手に取った後に、そのまま楊枝の入った容器をもらい受け、自分の分も抜き取っていた。わたしは楊枝の先を歯に当てていたことに驚き、もう一度歯に当てるかどうか迷い、楊枝をゴミと一緒の場所に置いた。

 

しかし、もう秘密のポケットは明かされた。パンドラの匣は、開け放たれたのである。