必死で何が悪い

確か、相手は女子大生だった。

いわゆるモテそうな格好の、大きな苦労を知らなそうな。

 

一方の私は、少し年上だったと思う。

 

留年しながら命からがら卒業して、社会人になって、心身ともに干からびて退職して。引きこもり同然になった私を見かね、友人がちょっとした用事を設定してくれることがあった。

 

たとえば、自主製作映画のエキストラやチラシ配りだった。

 

私には彼らのように湧き出る情熱や意地がなく、義理もない。白々しい思いすら持っていた。だが、自分の中に僅かに残った燃えかすを弄るように、彼らに関わった。

 

何でも、やる時は一生懸命に。そう心がけている。

 

自分に分担された映画のチラシが、自分の気持ち次第で相手にプラスに届くと良い。そう願った。

 

100枚ほどか、もっと少なかったかもしれない。新宿の街でチラシを配った。そして、件の女子大生に遭遇した。

 

必死じゃん。

 

女子大生は友人との雑談交じりに、悪びれなく私達を指差し、率直な感想を残して去った。

 

ヒッシジャン。

 

茶店で知らない誰かに、コップの水を突然浴びせられるような、唐突な驚きがあった。しかし…

 

必死で何が悪いんだ?

 

と沸々と思った。体を掻き毟るような憤りはなかったが、それでも彼女の指先を折り曲げて、自分自身を省みるように、と迫りたかった。

 

必死な誰かの生き方を指差し、笑う権利など誰にもないのだから。

街と猫

今住む街でとくに気に入ってたのは、小綺麗な野良猫が多いところ。

 

彼らの生活と自分の生活が時々噛み合う瞬間が、ささやかな楽しみだ。

 

最寄り駅から自宅までの道中、猫の集会に出くわす時がある。スラッとした脚を伸ばして、それぞれが毛繕いに励む様子は、まるで貴族だ。

 

猫目を憚ることなく、見入ってしまう。彼らは、一瞥をくれることもなく、「やめておけよ」と後頭部で語る。

 

人生の大半を休息して生きる彼らは、その場所を選ぶセンスも長けている。

 

駐輪場の側にある、ほんの小さな公園に設置された、水飲み場。人が体を少し屈めて水を飲む場所のヘコみに、猫が収まっている。猫が液体と揶揄される理由がわかる。

 

猫の収まりの良さについ見入ると、向こうも暗闇からこちらを見据えている。猫を覗くとき、猫もまたこちらを覗いているのだ。

 

こうした観察を通して、猫の休息所の勘所が磨かれる。帰宅までに、数匹の猫を見つけられるようになった。

 

彼らのお気に入りの休息所で、私もとくに気に入ってる二箇所。

 

一つは、夜の学校の玄関前。夜の学校というのが、まずセンスが良い。日中、たくさんの生徒たちに踏まれた玄関マットが、夜は数匹の猫の憩いの場。昼と夜、静と動の優しい対比。

 

猫の休息所でつぎに気に入っているのが、河川敷にある小さな公園のベンチだ。これは、ランニングコースの途中にある。

 

ベンチでくつろぐ数匹の野良猫を初めて目撃したとき、丸々と太った様子に、驚いた。地域猫として大切にされていることは一目でわかったが、その後、実際に餌やりのシーンも目撃した。

 

そして、おそらく、すべての猫が去勢済みだ。みな成猫で中年の貫禄、季節がいくつか過ぎても子猫が増えることはなかった。

 

ある低い木の下には、猫がいつも居る場所があった。そこを通るたびに、よほどお気に入りなのだろうと解釈していた。(数ヶ月後、ただの空目だったことに気づいた)

 

猫は土手の草むらに紛れていることも多いのだが、時々、堂々と道に座り込んでいることもある。

 

ある夕暮れに、階段にたむろする猫たちを見かけた。そのヤンキー集団がくつろぐ階段を、自転車に跨る一人のおじさんが、ものすごいスピードで降りていく。

 

すると、猫たちは途端に飼い猫の風貌となり、男性をどこまでも追いかけて行った。

猫も犬のような動きをするようだ。いいね、いいね。彼らを見送りながら、私も自分の道を走った。さようなら。

ドラマ『ウォーキングデッド』の弊害

世の中の人間は、ウォーキングデッドを見た人間と、見ていない人間の二種類に分けられる。

 

私は前者。

 

しかし、ウォーキングデッドというドラマとの距離感は、非常に難しい。

一度観始めると、立て続けに観たくなってしまうからだ。

 

翌日も朝から仕事に行くのに、夜更かししてまで続きを観てしまう。そんなのは初歩。

 

ウォーキングデッドを観る日々が続くと、人の脳みそをカチ割る夢が増える。ひたすら銃殺しながら、街を練り歩くようになる。最悪の気分で目覚める。

 

さらにウォーキングデッドの世界観に浸り続けると、抜けが悪くなる。

 

午後出社のために駅まで歩けば、どこへ行くでもなく散歩したり、公園で仲間と集ったりするお年寄りの姿をゾンビと見間違える。

 

それでもウォーキングデッドを見続ければ、登場人物の心境が身近になってくる。

 

どこからゾンビが現れるかわからないシーンにも関わらず、すぐ隣でドラマを一緒に観ている人物が、「腹が減った」だの、「トイレに行きたい」だのと危機感のない発言を繰り返すことが、我慢ならない。

 

この世界じゃ、ぬるい奴は生き抜けない。

 

ゾンビだけでなく、自分たちを死に追いやるような危険な思想を持った人間たちが、そこらにゴロゴロ蠢いているのだから。油断できる暇など、ひと時もない。

 

ゾンビを殺せない、人間だけは殺せない。

 

そんなことを言ってた人間も、死ぬか、生き抜くために殺すか、どちらか一つしか選べない世界だ。

 

常に注意を払うべきこの世界で、お腹が減っただの、トイレに行きたいだのと人の注意を削ぐ人間は、いつ他人を危険に巻き込むかわからない、生かしておけない人間なのだ。殺意がメラメラと沸き立つ。

 

そう、私はウォーキングデッドを現実に見ている。

 

メンタルがやばい域まで来たので、今はリモコンをそっと閉じている。

私とスピッツ草野マサムネ

以前、好きなライターさんによる、草野マサムネの記事を読んだ。

スピッツ草野マサムネに学ぶ、気になる女子の口説きかた - BASEMENT-TIMES

 

読んでいて、そうだそうだと共感する部分と、痒いところに手が届かないようなじれったさがあった。

そう、人は誰でも、スピッツ草野マサムネについて語りたい気持ちを持っている。私にも、草野マサムネを語らせてほしい。

 

スピッツ草野マサムネは声が良い

草野マサムネと言えば、まず何よりも彼の持つ声の良さが挙げられる。

自由なのびやかさ、今にも消えてしまいそうな儚さ。

その繊細でピュアな声が、みずみずしいメロディに乗せて、力強く美しい歌詞を歌う。

草野マサムネという、まるで純朴で弱々しい青年が、心に強い信念を抱えているであろうことを、その声と歌詞のバランスから知ることができる。

 

草野マサムネの作る歌詞が良い

草野マサムネは一見、弱々しい男性だ。ところが歌詞を聞けば、彼がとても芯の強い人間であることがわかる。たとえば、8823という曲のサビの一節。

 

君を不幸にできるのは 宇宙でただ一人だけ

『8823』作詞作曲 草野正宗

“君”に対する“自分”の影響力に、絶大なる自信を持っている。

実は、この歌詞の前には

君を自由にできるのは 宇宙でただ一人だけ

とも言っている。

“君”を自由にできるのも、不幸にできるのも、宇宙どこを探しても、そんなことができる人間は“自分”しかいない、と宣言している。

なんという思い上がった主張だろうか。それを、あのような弱々しい男性が、力強く宣言して歌っているのだ。

 

草野マサムネは新しい性癖を作る

あのように弱々しく繊細な男性が、君を自由にも不幸にもできる絶大な影響力を持った人物であると主張してくる。なんと勝手な男だろう、驚きに芽生える微かな喜びに戸惑う。

心の隙間に、「軟弱そうなのに実はメチャクチャ我が強い男は最高」という性癖が染み渡る。草野マサムネにマウントを取られたいという願望が沸々としてくる。

この性癖は、EXILEのメンバーに対する好印象を無効化する。

 

人はみな、草野マサムネについて語りたい願望がある。そして、以上のように実際に語ってみて、大して語れないことに気付く。さらに、草野マサムネ以外にスピッツを語れないことに、はっきりと気付く。

 

 

そんな感じ

気がつけば、このブログもすっかり更新が滞る始末。

なぜこんなにも更新頻度が下がったのかと言うと、実は、結婚したからだ。おまけに、子供も2人ほど産んだ。なんと、それはそれは可愛い、男女の双子を!

 

彼らと健やかに暮らすために、郊外に真っ白な一軒家を建てた。とても頭の良いゴールデンリトリバーが、子守役を買ってくれている。

 

ハーブと花がたっぷり植えられた中庭での水あげが毎朝の日課。休日には、カウンターテーブルつきのオープンキッチンでハーブティを淹れる。ママが焼いたバタークッキーとチーズケーキを頬張る子供たち。こぼれたおやつのカケラは、子守役がきれいに平らげる。

 

庭によく遊びに来た野良猫は、気付けば家族の一員になっていた。先輩と協力し合っておやつを盗むなど、イタズラをしては、叱られている。

 

晴れた日にはリビングの大きな窓を開け放して、家中に風を招く。洗濯物の石鹸の香りが、昼寝をする家族の頬を撫でる。

 

ブランチの後片付けをする手から、お皿が一枚、すり抜けて落ちた。お気に入りの分厚い皿は、意外なほどに簡単に砕けた。

お次は、三枚。きちんと積み重なった皿も、まっすぐ床に落ちて、あっけなく砕けた。

その次は、中庭にフリスビー。さきほどまでパスタを載せていた、丸くてきれいなお皿が、花壇のレンガに当たって砕ける。

家中の皿が、家を飛び出て行った。裸足で、中庭を駆け抜ける。バラのアーチをくぐり、門を抜け、丘をかける。スピードは上がり、膝はクルクルと、いよいよスピードを増した。

 

気付くと、海を越え、マレーシアに来ていた。名前も日本国籍も捨て、今ではマレーシア人として、オリンピック代表となり金メダルを獲るのが夢だ。

 

そういうことで、ブログのほうは難しい。

 

歳を取ると赤ちゃんに戻るというけれど

以前、おばあちゃんと雑談していた際に

「歳を取ると赤ちゃんに戻ると言うけど、あれは本当だね。最近はずっと寝ている」と言っていた。

 

横になり、日がな一日ウトウトと過ごすおばあちゃんの姿を想像すると私は和んだが、本人はふがいない気持ちなのだろう。

 

私はというと、最近ではよくパンツを裏返しに履いているようで、トイレで気づくたびに頭を抱えている。

 

年齢に換算すれば、5歳児くらいの凡ミスだろう。自尊心にグッと響く重めのパンチだ。

 

しかし、文化人としての自負もある。これは、一種の生きる工夫であると。

 

女子大生の時分に、女友達との3泊4日の韓国旅行にハンドバックひとつで参加した。身一つ、パンツ一つ。裏返せば、使えるさ。

 

そう、パンツは裏返しで使えるのさ。

 

他人の生活を覗きたい願望の強い私がグッと来ているタバコ屋

ついつい店内を覗いてしまうタバコ屋がある。会社の帰り道にあるその店は、出来て1年も立たない、一軒家をリノベーションして作られたタバコ屋だ。

 

タバコへの当たりが厳しいこのご時世に、よくも新規オープンしたものだ。

 

外壁に塗られた深緑のペンキとカタチの良い窓ガラスは落ち着きがあり上品で、パッと見ではタバコ屋に見えない。書きながら気付いたが、そういえば、タバコが置かれているのを見たことがない。

 

奇妙なタバコ屋であることを本能的に嗅ぎ取ってきたのか、職場の帰り道で店先を通りすぎる度に、横目でチラッと一瞬、覗いてきた。

 

私は電車の車窓に流れる民家などを見て、干された洗濯物から家族構成や人柄といった細部を想像するほど、他人の家や生活に関心がある。

 

私という思想体を残したまま他人に気付かれずに脳みそに寄生し、あらゆる人の人生や感情を覗いて生きたいという願望がある。

 

念を押しておきたいのは、もし本人に気付かれたらと思うと怖いため、決してジロジロと見ることはできないパーソナリティを持っている点。

 

だからこそ、たとえば車窓から見える洗濯物であったり、足を止めることはない歩みの中のチラ見だったり、一瞬で得た情報から家主の人生や生活を雄大に想像することが使命となる。

 

かのタバコ屋もそのようにして私に覗かれ、様々な想像妄想に晒されてきたのだが、つい最近はじめて家主を見かけた。

 

奥田民生をさらにボロにしたような煤けたアラフォー男性という風貌だった。一瞬のチラ見にも関わらず目が合ってしまい、つらかった。

 

その後もとくに変わりなくチラ見してきたのだが、なぜか最近、タバコ屋が目まぐるしく変化しているのだ!

 

一昨日は、動物の餌入れが置かれていた。しかも、それなりに使われてきたような入れ物で、餌はほどほどに減っており、それなりに家に慣れている様子が感じられた。器のサイズから猫か小型犬だと思われるのだが、あのタバコ屋で動物の影を見たことがない。

 

昨日は、古いパチンコ屋のカウンター横にでも置かれていそうな、ガラスの冷蔵庫が置かれていた。中身は空だが、これから飲み物をそれなりに置いきたいという心意気を感じ、なんとなく不審に思った。

 

いよいよ、今日。なんと、タバコ屋の入り口に「無料立ち寄り所」的な言葉が追加されていた! ここ最近の精力的な変化はこのためだったのかと納得しているのだが、店主さえほとんど見かけないタバコ屋を覗く楽しみがなくなる失望感があった。

 

タバコが見あたらないタバコ屋の入り口からは、7畳ほどの広さに小さなテーブルと椅子1脚、キッチン、ロードバイクが見える。誰にも咎められずに、一瞬だけ他人の生活を覗ける、万華鏡を覗き込むような煌びやかさがあった。

 

しかし、こうやってここに書き記しているうちに、今度はそこに集う人物を時々目撃できる可能性もあることがわかった。

 

あのような謎の多い店に集う人物というのは、さぞ変わり者に違いない。

 

覗くたびに新しい発見のあるタバコ屋に日々店内を覗かされているが、今後も覗かされる日々が続きそうだ。