近所の汁無し

ランチタイムを外して、会社から徒歩2分のラーメン屋に入る。客と店員が同じ人数である。メニューに一通り目を通し、やはり汁無し担々麺を注文した。汁無し1つ、という店員の声が響く。

間も無く、店員が目の前に皿を置いた。無心で混ぜるとパクチーや山椒、黒い味噌がすぐに絡み合った。口に含むと、記憶していたよりもずっと美味しい。作る人によって、それほど変わるものなのだろうか?などと考えていた。

店員の一人が、3番入ります、と口にしながら私の側に位置するトイレに消えた。客と店員の人数が等しい。トイレの扉の奥からはさきほど私が閉じた便座を持ち上げる音や細長い水が勢い良く注がれる音が聞こえた。

一方、私は麺を啜っていた。次第に、なぜ私は麺を啜っているのかという疑問や戸惑いの気持ちが強くなった。私は目の前の麺をきちんと食べられているのか、食べているのか、食べている行為が希薄に思えた。

トイレの扉が勢いよく開き、店員は厨房の奥に消えていった。トイレの扉は開かれた勢いのまま止まり、戻ることはなかった。視界の隅に便器の姿を感じながら、私は麺を啜った。店員らは、チャーシューの仕込み具合などを話していた。

最後の一口が流し込まれたとき、違和感が残った。最後の一口までずっと美味しい。それは、前回の食後とは異なる感想で、前回はパクチーと山椒の香りが口内に強めに残り、注文したことをうっすら後悔したほどだった。

3分の1はただ美味しく、次の3分の1はそれまでの美味しさを後追いし、最後の3分の1はクロージング。今回の分析結果である。次はおそらく、もっと美味しく感じるようになっているかもしれない。こうして人は常連になっていくのだろう。2ヶ月に1度汁無し担々麺を啜る女を記憶する店員には思えないので安心だ。

車道を走る車が反射した西日がトイレに吸い込まれていく様子を視界の隅に見ながら、空のお椀にこべりついた辛味噌を眺めて、仕事に戻った。