崩れるとき

人が崩れる時は、他人にとっては一瞬だ。

一緒に飲んでいたはずなのに、酔いでタガが外れて突然人格が変わってしまったかのように。

 

今年で88歳になる祖母の親友が他界した。祖母とその親友は80年来の付き合いで、私も小さい頃から自分の祖母のように付き合ってきた。

 

祖母と同郷であるその親友は小さな南の島で幼少期を過ごし、出稼ぎのためにともに本島に来て、結婚をし、子宝を得た。縁があって近所で生活し、互いの子供や孫、ひ孫の成長を見守って生きた。何をそんなに話すことがあるのか、女子高生かのように密に連絡を取り、長電話をしていた。

 

祖母と出かける約束をした際に、親友も一緒に連れ合い3人で回転寿しを食べた日もあった。

 

祖母と親友が喧嘩をしたらしいときには、80年付き合ってきても知らなかった怖い目で睨まれたという話を聞かされたこともある。

 

そんな祖母の親友が、他界した。膝が悪く、外出もままならないことは知っていた。それでも、可能な範囲で私と祖母のお出かけに顔を出してくれていた。

 

膝が悪いのは知っていたのだ。そのために手術を行い、成功したということは祖母との電話で聞いていた。容態が急変し、他界したことは従姉の急報で知った。未だに、もう会えないということは宙ぶらりんの感覚になっている。

 

仕事の忙しさにかまけて祖母との付き合いが随分希薄になり、親友の他界で落ち込んでいないはずがない祖母への連絡にも後ろめたさがあった。それが連絡をしてみると、祖母の人柄から大切なものはするすると抜け落ちてしまっていた。耳が遠く、理解力は随分落ちていた。

 

あれこれ考えて過ごせばあっという間に過ぎてしまった月日で、祖母の社会性のいくつかはこぼれ落ちていた。親友の他界の影響は計り知れない。縁起でもないと言いたいような事柄も、この現実に地続きとなっていることを感じてやまない。避けようもない未来があることからは逃れられないとすら感じる。

 

祖母と過ごせる時間を考え、会う時間を急激に押し進めている。何かの変更を理解してもらうことにも時間がかかり、予定の内容を真に理解してもらうことも難しい。話そうとしても、聞こえないのか、届かないのだ。

 

きょうだいとのLINEグループで、祖母の現状を報告する。私達はとくに達成しておくべき行為を端的に決めた。私個人は、まだ見ぬパートナーや、その子供を祖母に見せたいと思っている。祈るように、日々を丁寧になぞり、祖母と私の時間がなるべくリンクする未来を天に祈るしかない。